ツチノコの正体はオオアオジタトカゲじゃない。縄文時代から目撃されている!

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ツチノコ(槌の子)とは、日本でもっとも有名な未確認生物(UMA)の一種です。昔から目撃例は多数ありますが、未だにツチノコは捕獲されておらず、実在は確認されていません。

ツチノコの正体については、獲物を呑み込んで腹の膨れた蛇を誤認したものという見解が主流でした。

しかし、最近では上の動画のように、ツチノコの正体の最有力候補を「オオアオジタトカゲ」とする見解もあり、ネットではあたかも決着がついたかのようにも言われています。

確かに、姿かたちはツチノコに似ていますね。とはいえ、ツチノコの目撃例は江戸時代にも多数あり、古くは縄文時代まで遡れます。

本当にUMAツチノコの正体は、オオアオジタトカゲなのでしょうか?

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UMAツチノコの正体は、オオアオジタトカゲ?

UMAツチノコの正体とされるオオアオジタトケカゲ

現在、UMAツチノコの正体とされるオオアオジタトカゲは、日本では1970年代に輸入されています。これはツチノコがブームとなり、目撃例が急増した時期に一致しています。

オオアオジタトカゲは安価で飼育しやすいので人気になりましたが、その後に飼育放棄されたり、逃げ出したりしたものが、ツチノコに見間違えられたケースはありそうですね。

しかし、だからといって「ツチノコの正体は、オオアオジタトカゲだった!」と断定するのならば、それは事実の一面しか見ていないと思います。

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ツチノコは縄文時代から目撃されている未確認生物

ツチノコのイメージイラスト

ツチノコの目撃は、オオアオジタトカゲが輸入された1970年代から始まったわけではありません。

江戸時代の文献には、ツチノコの挿絵まで付いた目撃報告が残されています。もちろん、江戸時代の日本にオオアオジタトカゲはいません

ツチノコの正体をオオアオジタトカゲとするならば、「少なくとも江戸時代から目撃されている」という事実を、説明できなくなります。

縄文時代の土器に、ツチノコが描かれている?

縄文時代の土器に装飾されているツチノコ

ツチノコの姿は江戸時代どころではなく、古くは縄文土器の壺の縁にも描かれています。

長野県茅野市の尖石考古館に展示されている縄文土器には、壷の縁飾りに、「平たい頭で、目は丸くて大きく、足がないトカゲに似た体つき」のツチノコらしき姿(上の写真参照)が描かれているのです。

また、岐阜県高山市の飛騨民族考古館にも、ツチノコをかたどったような縄文石器があります。

これは飛騨縄文遺跡からから出土した6000年前の石器で、「幻のつちの型石器」として紹介されています。

そんな昔からツチノコはいたのか!」と驚きますが、日本古来の生物として存在しているのならば、縄文時代に目撃されていても何ら不思議ではありませんね。

古事記や日本書紀にも、ツチノコが登場している?

古事記

文献に残されているツチノコの記録も古くて、すでに奈良時代の『古事記(712年)』や『日本書紀(720年)』には、カヤノヒメ神の別名として「ノヅチ」の記述があります。

これが文献に最初に登場したツチノコではないかと考えられています。

ちなみにツチノコは漢字で書くと、「槌之子」になります。ツチノコの呼び名は、全国に様々に伝わっており、野槌(ノヅチ)とも呼ばれているのです。

日本史の教科書で習った古事記や日本書紀に、未確認生物のツチノコが登場していたと考えると興味深いですね。

鎌倉時代の仏教説話にも野槌が記されている

少し時代を下って、鎌倉時代の仏教説話集『沙石集(しゃせきしゅう)』には、「徳のない僧侶が目鼻や手足のない野槌として生まれ変わった」という記述があります。

仏法法話のたとえ話にも、野槌(ツチノコ)が出て来るのですから、当時の庶民には馴染みのある生き物だったのでしょうか?

さらに、江戸時代に出版された百科事典『和漢三才図会』にも、「野槌蛇」の名称でツチノコの解説があります。

それによると、ツチノコは和州(現・奈良県)吉野山中の菜摘川(夏実川)や、清明滝(蜻螟滝)で目撃されていたようです。

「野槌」の名前の由来は、(つち:柄の先に円筒状の鉄や木が付いている物を叩く道具)に似ていることから名付けられたとも記されています。

ツチノコは、深山の木の穴に住み、大きいものでは体長3尺(約90センチメートル)、直径5寸(約15センチメートル)あり、人を見ると坂を転がり下って人の足に噛みつくそうです。

しかし坂を登るのは遅いので、ツチノコに出くわしたときには高いところへ逃げると良いという、逃げ方の解説まで書かれています。

鎌倉時代の仏教説話や、江戸時代の具体的な目撃報告からして、現代では正体不明の未確認生物とされるツチノコも、昔は頻繁に目撃されていたのではないか?と思えてきますね。

江戸時代の古書に登場しているツチノコ(野槌)の画像

江戸時代の古書では、ツチノコ(野槌)はどのように描かれているのでしょうか? ツチノコの正体を考える上で、参考になりますね。

以下、さまざまな古書より、個性豊かなツチノコの挿絵の画像をご紹介します。

寺島良安の『和漢三才図会』

『和漢三才図会(1712年)』に描かれた野槌の画像

大坂の医師、寺島良安が編纂した『和漢三才図会(1712年)』に描かれた野槌(ノヅチ)の絵です。この絵ではヘビにしか見えませんが、野槌として紹介されています。

鳥山石燕の妖怪画集『今昔画図続百鬼』

鳥山石燕の妖怪画集『今昔画図続百鬼』に掲載されている野槌(のづち)の画像

鳥山石燕の妖怪画集『今昔画図続百鬼』(1779年/安永8年刊行)に掲載されている「野槌」の挿絵です。現在、イメージされているツチノコとは、ちょっと違います。

井出道貞の『信濃奇勝録』

井出道貞の『信濃奇勝録』(1834年 天保5年)で、野槌の項で使用されたツチノコの画像

井出道貞の『信濃奇勝録』(1834年/天保5年)で、野槌の項で使用されたツチノコの挿絵です。こちらは現在のツチノコのイメージに近いですね。

『信濃奇勝録』は、井出道貞が、信濃国(現在の長野県)の各地を十数年にわたって実地踏査を重ね、見分した成果を記録したそうです。ツチノコの目撃談を聞いて、描いた絵になります。

畔田翠山の『野山草木通志』

畔田翠山の『野山草木通志』に描いた野槌の画像

江戸末期の博物学者、畔田翠山(くろだすいざん/1792~1859年)が、『野山草木通志』に描いた野槌の絵です。畔田翠山は諸国を巡って、植物・魚介を採集して、『草木志』『水族志』『古名録』などの図録にしています。

大きさが記されており、本当にツチノコを捕獲して描いた絵なのかもしれません。

ツチノコの正体は、未だ解明されていない

このようにツチノコの存在は、日本最古の歴史書である古事記でも確認がされており、それ以降の時代を経ても、綿々と語り継がれている存在だということが分かります。

現在のUMAとしてのツチノコと、古書に描かれている野槌(のづち)が同一であるかどうか、議論の余地はあると思います。しかし、すでに江戸時代には、明らかにツチノコと思われる絵が描かれています。

1970年代に輸入されたオオアオジタトカゲが、ツチノコに見間違えられたケースはあったとしても、それよりも遙か昔から目撃されているツチノコの説明はつきません

少なくとも、オオアオジタトカゲの姿が、ツチノコに似ているという理由だけで「ツチノコの正体判明!」と簡単に決めつけるのは、ちょっと早計ではないでしょうか?

ツチノコの正体は、未だに解明されていないのです。

次ページでは、「なぜツチノコは捕獲されないのか?」について考察してみます。

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未確認生物(UMA)
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