江戸時代にUFOとしか思えないような奇妙な舟が漂着した、という話をご存知の人も多いと思います。
これは『うつろ舟の蛮女』の話として伝わっていますが、「江戸時代に起きたUFO・宇宙人の遭遇事件ではないか?」と考える人たちも数多くいます。
しかも、うつろ舟の中には、手に箱を抱えた美女が乗っていたというのですから、さらに驚きです。
当時の事件の様子を伝えている挿絵を見ると、UFOとしか思えないような窓の付いたお椀型の乗り物、奇妙な姿をした女性、見たこともない謎の文字などが、実際に描かれているのです。
とはいえ、もう200年以上も前の出来事なので、長い間、うつろ舟の真相は定かではありませんでした。
ところが最近になって、遂にうつろ船の謎が解き明かされた!と言うのですが、本当でしょうか?
うつろ舟に描かれていたという謎の文字や、乗っていた美女の正体も解明されたということです。
以下、解明されたという根拠と、私なりの見解を述べたいと思います。
『うつろ舟(虚舟)の蛮女』とは?
『うつろ舟(虚舟)の蛮女』は、1825年に刊行された『兎園小説』の中に収められている話の一つです。
兎園小説は、「南総里見八犬伝」で有名な滝沢馬琴(曲亭馬琴 1767~1848年)の随筆です。当時の好事家たちが、月に一度集まって、奇妙な話を披露するという『兎園会』の話をまとめています。
『うつろ舟の蛮女』の概要
まずは、『うつろ舟(虚舟)の蛮女』の概要を、簡単にご紹介します。
江戸時代の1803年、常陸国(現在の茨城県)の「はらやどり」という浜の沖合に、奇妙な形をした『うつろ舟』が漂着しました。
そこに住んでいた漁民たちは不審に思い、小舟を出して、うつろ舟を浜まで引いて来たそうです。
うつろ舟は、お香の入れ物のような形をしていて、直径5.5メートルほどありました。舟の上半分にはガラスが張った窓があり、下半分は鉄板で作られています。
うつろ舟の中には、異様な姿をした美女が乗っていて、髪は赤く、話し掛けても言葉が通じません。女性は60センチ四方の箱を、大事そうに抱えていたそうです。
さらに船内には、宇宙文字のような記号が描かれていたと伝えられています。
しかし、そこまで調べておきながら、漁民たちは厄介事になるのを恐れてのことか、うつろ舟をまた沖合に戻してしまったとのことです。
その後、うつろ舟と美女がどうなったのかは不明です。
「はらやどり」の場所は実在していた
『兎園小説』では、うつろ舟に乗っていた女性を蛮人(外国人)としていますが、5.5mの小舟に女性が一人乗って、はるばる海を渡ってやって来たとは考えられません。
うつろ舟の奇妙な形を見ると、UFOに乗った宇宙人だったのではないか?と、否応にも想像してしまいますね。機体が故障して海上に不時着し、仲間の助けを待っていたのでしょうか?
しかし、『うつろ舟の蛮女』に書かれている「はらやどり」という地名が実在しないという点がネックとなり、長らく、この話は創作ではないか?とも考えられていました。
そもそも滝沢馬琴は、当時の売れっ子の作家であり、奇妙な話を創作することを生業にしているのです。創作と見られても仕方がありません。
ところが近年、うつろ舟の研究をしている岐阜大学名誉教授・田中嘉津夫氏の調査によって、「はらやどり」という地名は書き誤りであり、江戸時代の茨城県南部の太平洋岸に実在していた「常陸原」という場所であることが判明したのです。
常陸原は、江戸時代の常陸国鹿嶋郡に実在し、伊能忠敬が作製した地図「伊能図」(1801年調査)にある地名で、現在の神栖市波崎 舎利浜(しゃりはま)に当たります。
うつろ船の新史料
こちらの動画でも、今まで不明とされていたうつろ船の漂着地を示す新史料が見つかったと報じられています。以下、ポイントを纏めます。
- 発見された新史料は、三重県三重大学特任教授の川上仁一氏が所持している。
- 新史料には1803年2月26日の日付が記されており、この日付は、うつろ船の発見されたとされる日の4日後であり、最古の史料として信憑性が高い。
- 新史料には、うつろ舟の漂着場所は、「常陸原舎り濱(現在の茨城県神栖市波崎舎利浜)」と具体的に書かれている。
- 他にも、円盤型の乗り物や、奇妙な文字の描写があり、この史料こそが他の史料や伝説の元になっていると考えられる。
新史料の発見によって、伝説のうつろ舟は実在していた!と確定されたのではないでしょうか?
そうなると、「うつろ船の正体は何であったのか?」という点に焦点が当てられますね。
滝沢馬琴の『うつろ舟の蛮女』の話は、やはり江戸時代に本当に起きたUFO・宇宙人遭遇事件だったのでしょうか?
次ページでは、遂にうつろ舟の謎が解明された!という内容をご紹介します。