真実の縄文時代・三内丸山遺跡。縄文人は未開の原始人ではなかった!

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縄文時代の三内丸山遺跡

縄文時代の人々と言えば、獣の毛皮や簡素な衣を着用し、竪穴式住居で暮らす原始的な人々の姿が思い浮かぶのではないでしょうか?

しかし近年、青森県・三内丸山遺跡などの発掘調査により、従来の縄文時代の通説では説明のできない様々な事実が判明しています。

真実の縄文時代について、私たちは何も知らなかったかもしれないのです。

今、秘かに縄文ブームが到来しています。真実の縄文時代を知ることにより、私たち日本人の歴史認識を改める良い機会になるのではないでしょうか?

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縄文人は未開の原始人ではなかった!

縄文時代の暮らし

「縄文時代」と「弥生時代」の違いについて、学校の授業では以下のように分かりやすい構図で教わったと思います。

  • 縄文=狩猟・採集生活
  • 弥生=農耕生活

縄文時代は、狩猟・採集を中心とした原始的な生活です。そして弥生時代になってから、朝鮮半島から稲作が伝わったおかげで、ようやく日本人は文明的な生活を始められるようになったわけです。

しかし、私たちが教わっていたこれらの通説は、間違っていたかもしれません。なぜならば、縄文人=未開の原始人ではなかった!からです。

以下、縄文時代の真実について、三内丸山遺跡を取り上げながら具体的に考察していきます。

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縄文時代のイメージを覆した三内丸山遺跡

従来の縄文時代のイメージを、根本から覆したのは、青森県の三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)でしょう。

遺跡の存在は江戸時代から知られてはいましたが、本格的な調査が始まったのは、ようやく1990年代に入ってからになります。

調査の結果、三内丸山遺跡は、今から約5,000年も前の縄文時代の遺跡であることが分かっています。これは世界最古の都市文明と言われるシュメール文明の始まりと、同時期に当たります。

その年代の古さにも驚きますが、実は青森の三内丸山遺も、驚くことに都市と呼べるほどの規模と機能を備えていたのです。

これは縄文人が文明的な生活を営んでいたという証明であり、原始的な縄文時代のイメージとは全く異なります。

縄文時代の都市

三内丸山遺跡の俯瞰

三内丸山遺の敷地は、現在分かっているだけでも、約40ヘクタール(東京ドーム約8個分)もの広大な範囲に及んでいます。

遺跡には、通常の竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、約780軒にもおよぶ住居跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在しています。さらに、道路や共同墓地も計画的に配置されています。

三内丸山遺は、近隣の遺跡にも繋がっている可能性が高く、全容は未だに分かっていません。この地域一帯が都市圏として発展していた可能性もあります。

これほどの規模の遺跡が、日本神話の発祥地と考えられる九州や、大和朝廷が成立した畿内ではなく、東北の青森県に存在したという点も意外ですね。日本の歴史の深さを感じます。

六本柱建物

三内丸山遺跡・六本柱建物

三内丸山遺跡では、直径1メートルの栗材・六本からなる建物跡が発見されています。この六本柱建物は、推定15メートルの高さがあり、これは4階のビルの高さに相当します。

機械やクレーン車もない時代に、どうやって巨大な柱を組み立てたのでしょうか?

ちなみに縄文人の体格は、成人男性で155センチ前後、成人女性で150センチ弱と考えられています。

現代人よりも遙かに小さな体で、このような巨大な建造物を人力で建造したわけです。何かしらの高度な建築技術を持っていたとしか考えられませんね。

六本柱建物の柱穴

他にも、六本柱建物には特筆すべき点がいくつかあります。一つは、柱穴が4.2メートルの完全な等間隔に並んでり、幅と深さは2メートルで統一されていることから、「尺」が存在したと考えられる点です。

これは縄文時代にも、測量技術があったことを裏付けています。

また、腐食を防ぐため周囲を焦がす技術が施されていたり、全ての柱を内側に2度ずつ傾けることで倒れにくくする「内転び」という建築技術も用いられていることも判明しています。

現在、六本柱建物は復元されていますが、屋根も壁もない吹きさらしの建物として復元されています。柱の穴と、土中に僅かな木材しか残っていないので、実際にはどのような建物であったのかは想像するしかありません。

しかし、高度な建築技術を持っていたのならば、建物のデザイン性にこだわるセンスも、やはり備えていたのではないでしょうか?

そう考えると、当時の六本柱建物は、縄文時代にありながら、数千年も時代を先取りした美しい神殿のような建物であった可能性もあります。

日本最大の竪穴式住居跡

三内丸山遺の大型竪穴式住居跡(外観)

三内丸山遺の大型竪穴式住居跡(内観)

三内丸山遺跡では、幅10メートル以上の大型竪穴式住居跡が、いくつも確認されています。写真は、長さ32メートル、幅10メートルもある日本最大の竪穴式住居です。

大型竪穴式住居と言っても、単なる住居には見えませんね。住居の他に、多くの人々を収容できる集会場や、村の共同作業場ではなかったか?とも考えられています。

今までの定説では、集団におけるリーダーの出現は弥生時代になってからですが、実際には縄文時代にも優れたリーダーが存在していたとしか思えませんね。

このような三内丸山遺跡が存在していること自体が、縄文時代の人々も社会性のある高度な集団生活を営んでいたという証明になります。

縄文人は植物栽培もしていた

三内丸山遺跡・高床式倉庫

高床式倉庫

三内丸山遺跡では、東西約75メートル、南北約18メートルの範囲に高床式倉庫跡が確認されています。

生活した痕跡がないことから祭殿用の建物、もしくは食糧倉庫であると考えられます。

食糧倉庫であるならば、縄文人も後世の弥生人のように、豊富な食糧を確保していたことになります。倉庫を建てるくらいですから、自然から採集したものだけでなく、自ら栽培をして食糧を蓄えていたと考えられます。

実際に、三内丸山遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、栽培されていた栗であったことが分かっています。

栗については、良質の実を収穫するために、最短3~4年のサイクルで苗木の選別・栽培を行い、次第に大きくて甘い園芸種の栗に改良していったと推測されています。

栗は食糧となる他、建築材、道具の材料、燃料にも使用されており、三内丸山に暮らす人々にとって、栗の栽培は生活を支える重要な仕事であったと考えられます。

また、三内丸山遺跡では、多数の堅果類(クリ・クルミ・トチなど)の殻、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土しています。

次ページでは、縄文時代にも稲作は行われていたという真実についてご紹介します。定説では、「稲作=弥生時代」ですから、これは重大です。

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