イースター島 モアイ像の謎。石像はいつ、どのように造られ、なぜ巨石文明は滅びたか?

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イースター島のモアイ像

世界の七不思議と聞いて、イースター島のモアイ像を思い浮かべる人もいると思います。

空を見上げるかのように並んでいるモアイ像の巨石群を見ると、「いつ、誰が、何の目的で?」と不思議になりますね。

2011~2012年の調査では、地中に巨大な胴体が埋まっていたモアイ像も発見されており、21世紀になってもモアイ像の謎は深まるばかりです。

18世紀に西洋人がイースター島に訪れた時、モアイ像を造っていた高度な文明の面影は、すでにありませんでした。島民たちは、石器時代の人々と変わらない暮らしをしていたと言われています。

いったい島民は何のためにモアイ像を造り、このような高度な技術を持った人々は、どこへ消えてしまったのでしょうか?

当記事では、イースター島とモアイ像の謎についてご紹介します。

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モアイ像は絶海の孤島、イースター島で造られた

イースター島の謎の一つに、水平線しか見えない絶海の孤島に、なぜモアイ像のような巨石像を造る文明が生まれたのか?という点が挙げられます。

イースター島は、最盛期の人口でも1万人程度の小さな島です。このような孤島に世界の七不思議が生まれたこと自体が、大きな謎です。

絶海の孤島、イースター島

絶海の孤島、イースター島の場所

イースター島は現在、チリ領になっていますが、チリ本土からは3,800kmも離れた場所にあります。

最も近い有人島でも、直線距離で2,000km余りも離れています。まさにイースター島は、絶海の孤島なのです。

1772年にオランダ人のヤコブ・ロッフェーンが、この島を発見した日がキリスト教のイースター(復活祭)であっため、イースター島と名付けられました。

実は、イースター島の正式名称は「バスクア島」なのですが、私たちにはイースター島のほうが馴染み深いですね。

イースター島の全景と、島民の暮らし

グーグルアースで見るイースター島の全景

グーグルアースで見たイースター島の全景です。面積は約163.6キロ平方メートルあります。

イースター島は、伊豆大島(91.06キロ平方メートル)の2倍弱の大きさになります。北海道の利尻島とは、ほぼ同じ大きさの島になります。

イースター島は、島全体が「ラパ・ヌイ国立公園」として国立公園になっています。1995年には、世界遺産に登録されています。

現在、イースター島には約4,000人の島民が住んでいます。そのほとんどは西洋人の奴隷狩りによって連れ去られ、のちに戻ってきた人々の子孫です。

このため、イースター島に伝わる古い文化の継承は途切れています。

今のイースター島にはレストラン、ホテル、ディスコなどの娯楽施設から、学校、病院、博物館、郵便局、放送局(テレビ局3局、ラジオ局1局)まで、必要なインフラはすべて整備されています。

島内には一軒だけ日本食レストランもあり、メニューには寿司や刺身、味噌汁などがあるそうです。

イースター島の神秘的なイメージが崩れてしまったかもしれませんが、現在では、人を寄せ付けない孤島にモアイ像が立ち並んでいるわけではありません。

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モアイ像はいつ頃、なぜ、どのようにして造られたのか?

アフ・トンガリキのモアイ像

アフ・トンガリキに立つモアイ像です。海岸沿いに15体のモアイ像が、ずらりと並んでいる姿が圧巻です。

実は、発見された当時のモアイ像は全て倒されており、1990年代に日本のクレーン会社の援助によって、このように復元されています。

なぜ島民にとって神聖なはずのモアイ像が倒されていたのか、これもモアイ像を巡る謎の一つです。

モアイ像はいつ頃に造られたのか?

モアイ像と聞くと、古代遺跡のようなイメージがありますが、実はそれほど古い時代のものではありません。

現在の調査では、7、8世紀頃からモアイ像が造られ始め、その後も17世紀までは造られていたと考えられています。ほぼ千年もの長い間、イースター島にはモアイ像を造る高度な文明が栄えていました。

なぜこのような小さな孤島に?」という疑問が出てきますね。

逆に言えば、絶海の孤島ゆえに、長らく外敵の侵入を防げたため、平和と繁栄を保つことが出来たのです。

また、モアイ像を造るに当たっては、加工しやすい軟らかな岩石が、島に大量に存在していた点が挙げられます。

イースター島は、敵がやって来ない平和な島であり、良質の石材も豊富にあり、巨石文化が生まれる環境としては恵まれていたのだと言えます。

なぜモアイ像を造ったのか?

「なぜモアイ像を、たくさん造ったのか?」という点も、大きな謎ですね。

モアイ像の姿も異様なので、「モアイ像は宇宙人が造ったのではないか?」「モデルは宇宙人ではないか?」と想像したくなります。

赤い帽子を被ったモアイ像

上の写真はプカオと呼ばれる赤い帽子を被ったモアイ像です。最盛期の1,500年代に造られています。

モアイ像は、島を治めていた部族長や先祖の霊を祀ったものと考えられています。上の写真のモアイ像を見ると、赤い帽子の他に、よく見るモアイ像とは異なる点に気付きませんか?

そうです。「」があります(写真のモアイ像の目は実際のものではなく、イミテーションで入れた目)。

実は、もともとモアイ像には、目がはめ込まれていました。白目は珊瑚製、瞳には赤色安山岩や黒曜石が使われていました。

モアイ像の目には、霊力の「マナ」が宿っていると信じられていました。

モアイ像は先祖の墓や、信仰の対象としての意味もありますが、モアイ像の目に宿る霊力「マナ」の超自然的なチカラによって、自分の部族を守るためにモアイ像を造っていたと考えられています。

その証拠に、モアイ像は、それぞれの集落を守るようにして立てられています。要するに、モアイ像は部族の守り神として造られていたのです。

モアイ像は、どのようにして造ったのか?

イースター島のモアイ像は、現在、約900体ほどが発見されています。平均的なモアイ像で4~5m、重さは約20トンあります。最大のモアイ像では10m以上のものあります。

時代を下るにつれて、モアイ像は巨大化し、細工も複雑化していったようです。

このような大きなモアイ像を、どのようにして造り、運んで、立てたのか?という疑問が出てきますね。

造りかけのまま放置されたモアイ像

実は、造りかけのまま放置されたモアイ像(上写真)も300体ほどあり、道具も一緒に発見されています。このため、「どのようにして造られたか?」については、かなり分かっています。

驚くことに、イースター島の人々は鉄器を持っていなかったのですが、イースター島のラノ・ララク火山には、玄武岩や黒曜石の石器でも容易に加工できる凝灰岩(ぎょうかいがん:細かい火山灰が固まったもの)が豊富にありました。

島東部のラノ・ララク火山の斜面から岩を削り出しながら、一説には、石工20人が1年以上の長い時間を掛けて、モアイ像を造ったと考えられています。

モアイ像を、どのようにして運んだのか?

但し、モアイ像を造った方法については分かっていても、どのようにして運んだのかについては、よく分かっていません。一番遠い場所になると、モアイ像が造られていた場所から20kmも離れているのです。

イースター島には、「モアイは自分で歩いてラノ・ララクからやって来た」という伝説が残されています。

このため、立てたモアイ像を、左右のロープで交互に引っ張りながら、モアイ像が歩いているかのように運んだ可能性が指摘されています。

ロープで引っ張り、モアイ像を歩かせて運ぶイメージ

上の想像図を見ると、こんなふうに左右で絶妙なバランスを取り、ロープで引っ張りながらモアイ像を歩かせるなんて可能だろうか?という感じはしますね。

モアイ像を運ぶ検証

でも、実際に検証されていました!

本当にモアイ像と同じ重さの像を、この方法で運んでいるのならば、たいしたものですね。単に運ぶだけの目的ではなく、このように歩かせることで、モアイの威厳を高める目的もあったのかもしれません。

日本でも神輿を担いで練り歩くように、モアイ像を歩かせること自体が、神聖な祭事であった可能性はあります。

他にも、テコの原理で少しずつ前進させる、木や石のコロを利用して運ぶ、船を使って海岸から運ぶなど、モアイ像の運搬方法には諸説があります。

運ばれたモアイ像を立てる時には、地面と像の間に少しずつ小石を積み上げて、起き上がらせたようです。実際にこの方法で、モアイ像を立たせる実験が何度も行われて、成功しているそうです。

海に沈んでいるモアイ像

イースター島の海に沈んだモアイ像

イースター島には、海に沈んでいるモアイ像も2体発見されています。運搬中の事故で沈んでしまったのでしょうか? 場所によっては、船でモアイ像を運搬していたのかもしれません。

あるいは、海を守る神として、故意にモアイ像を沈めた可能性も考えられますね。

写真を見ると、事故で沈んだのではなく、ちゃんと海底の岩にモアイ像を安置しているようにも見えます。もしもそうならば、漁の安全を祈ってのことでしょう。

地中に巨大な胴体が隠れていたモアイ像

地中に巨大な胴体が隠れていたモアイ像

2011年末から2012年にかけて実施された調査で、一部のモアイ像は、地中に巨大な胴体が隠れていることが判明しています。

人間が小人に見えてしまうほど、全体像は巨大であることが分かります。霊力を宿したモアイ像のマナ(目)が、集落の全体を隈無く見渡せるように、これほど高く造られているのでしょう。

また、像の背中には、不思議なペトログリフ(文字や意匠など)が刻まれています。これは守り神の象徴を意味しているものと思われます。

次ページでは、「なぜイースター島の文明は崩壊したのか?」について考察してみます。

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