イースター島 モアイ像の謎。石像はいつ、どのように造られ、なぜ巨石文明は滅びたか?

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なぜイースター島の文明は崩壊したのか?

1774年にイギリス人探検家のジェームズ・クックは上陸した際のイースター島

上記の絵は、1774年にイギリス人探検家のジェームズ・クックが、イースター島に上陸した際の光景を描いたものとされています。

クックは、倒壊している多くのモアイ像を見ましたが、この時点では、まだ半数ほどのモアイ像は直立していたそうです。山肌には作りかけのモアイ像が、まるで作業を急に止めたように放置されていたとも伝えています。

イースター島の島民たちは草葺きの貧しい家に住み、高度な文明を築き上げた民族の面影はありませんでした。

伝承では、1840年頃に最後のモアイ像が倒されたとされています。このため現在、私たちが知っているモアイ像は、その後に掘り起こされ、立て直されたものになります。

しかし、多くのモアイ像は、今も倒れたままになっているのです。

島内の部族同士の争いで崩壊してしまった?

モアイ倒し戦争

およそ千年もの間、繁栄していたイースター島の文明は、なぜ突如として崩壊してしまったのでしょうか?

絶海の孤島のために外敵が侵入せず、平和を保っていたイースター島ですが、人口が増大すると、島内での部族間の衝突が起きるようになりました。

島民たちは、部族の守り神のモアイ像を盛んに立てて、他の部族と競うようになります。しかし、モアイ像の製造には、運搬用の木材を大量に使うため、島の森の資源が枯渇してしまったと考えられています。

森林がなくなると、肥沃だった土地も枯れてしまい、資源不足と食糧難が襲ってきます。これによって部族間の争いが激しくなり、敵の部族のモアイ像を襲撃しては、倒すという行為をお互いに繰り返すようになりました。

このモアイ倒し戦争によって、彼らは霊力が宿ると言われる敵のモアイ像のマナ(目)を破壊したのです。

ほとんどのモアイ像が倒された状態で発見され、モアイ像にもともとあった目がないのは、このためだと言われています。

イースター島は、絶海の孤島ゆえに長い平和を保てたとも言えるのですが、絶海の孤島ゆえに、一度争いが起きると崩壊するまで争いが止まなかったわけです。

しかし、この自滅的な戦いを、そのまま史実として鵜呑みにして良いのかな?という気もします。小さな島の住人同士が、共通の先祖が築き上げてきた文明が崩壊するまで争うだろうか?という率直な疑問があります。

絶海の孤島のイースター島にも、18世紀には西洋人たちがやって来ることになります。歴史の陰に、西洋人たちの略奪や破壊行為は隠されているかもしれないと思うわけです。

ヨーロッパ人による侵略で崩壊した?

前述したように、18世紀にヨーロッパ人がイースター島に到達したときには、島民の生活は石器時代と殆ど変わらないものになっていたと言われています。

しかし、モアイ像造りの最盛期が16世紀頃と考えると、あまりにも崩壊が早くないでしょうか?

900体もの巨石像を造っていた人々が、最盛期から200年後には石器時代の人々と同レベルの生活になっているわけです。

ロンゴロンゴの象形文字 Rongo-rongo_script

イースター島には、ロンゴロンゴ(上写真)と呼ばれる独自の象形文字があります。

そのロンゴロンゴを刻んだ木板は、ヨーロッパ人が訪れた当初には数千枚もありましたが、キリスト教布教のために焼き払われてしまい、今では20枚程度しか残されていません

ロンゴロンゴは神官や支配者層にしか伝えられていないので、現在の島民の子孫では読むことができず、解読不能になっています。

また、現在の島民の多くは、フランス人の奴隷狩りによってタヒチに連れ去られ、戻ってきた人々の子孫であるため、イースター島に伝わる文化も断ち切られてしまっています。

さらに帰って来た島民が天然痘を島に持ち込んでしまい、1877年には全島民が111人にまで激減してしまったという資料もあります。

そう考えると、西洋人との接触を機会として、イースター島の文明が破壊されてしまったことは事実です。

真実は物言わぬモアイ像だけが知っている

夕日を背景に立ち並ぶモアイ像

実際に西洋人たちは、島民の奴隷狩りをしたり、島の大事な文化遺産であるロンゴロンゴを刻んだ大量の木板を焼き払っているわけです。

そのような行為をする西洋人たちが、単なる来訪者であるはずがありません。他にも島内のありとあらゆるものを略奪し、破壊行為を行ったと考えるほうが自然です。

キリスト教の布教のためには、島民が信仰しているモアイ像は邪魔でしょう。島民同士のモアイ倒し戦争にしても、実際には、裏で西洋人が糸を引いて戦いを大きくした可能性は十分に考えられます。

内憂外患と言いますが、島内の争いに西洋人たちが乗じて、瞬く間にイースター島の文明を崩壊させてしまったのではないでしょうか?

西洋人が訪れる前に滅んでいたのではなく、西洋人との接触を境にして、島民の生活はあっという間に石器時代と変わらないものになってしまったと解釈するほうが、本当は正しいのかもしれません。

ちなみに、ペルーのインカ帝国を征服したフランシスコ・ピサロ(1470年頃~1541年6)も、アステカ帝国を征服したエルナン・コルテス(1485~1547年)も、貪欲と残虐の限りを尽くして南米に栄えていた文明を破壊しました。

西欧が支配する植民地時代に、イースター島に訪れた西洋人だけは例外だったとは考えにくいですね。

イースター島の文明が滅んでしまった本当の理由は、今も物言わずに立っているモアイ像だけが知っているとしたら、物悲しさを感じます。

古き良き時代のイースター島に思いを馳せて、モアイは空を見上げているのでしょうか?

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古代の謎
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