ヘッジス・スカルは、本当にマヤ遺跡から発見されたのか?
ヘッジス・スカルは、水晶ドクロという神秘的な造形と、それにまつわるミステリアスな伝説、そして世界的な知名度からしても、まさにオーパーツの顔とも言うべき存在です。
ただ、その出自を調べてみると、怪しい点が出て来るのも事実です。最大の焦点はヘッジス・スカルの発見場所になるのですが、以下、どのようにして発見されたのかをご紹介します。
マヤ文明の遺跡から、水晶ドクロが発見された!
1927年の初頭、英国人の探検家ミッチェル・ヘッジス(上写真)と、その養女アンナ・ヘッジスは、アトランティス文明の遺跡を求め、ベリーズ南部(当時は英国領ホンジュラス)の古代遺跡を調査していました。
ヘッジス・スカルが発見されたのは、ちょうどアンナの17歳の誕生日です。発見された場所は、マヤ文明のルバアントゥン遺跡(西暦300~900年頃)です。
アンナは遺跡の祭壇の下に、何か光輝くものが埋まっているのを見つけました。掘り出して見ると、驚くことに、それは水晶で精巧に作られた人間の頭蓋骨でした。
その三ヶ月後には、そこから8メートルほど離れた場所に、今度は水晶ドクロの下あごが見つかりました。最初に見つかったドクロと、ぴったりと合います。
のちの分析で、頭蓋骨と下顎は、一つの水晶から作られていることが判明しました。以降、この水晶ドクロは発見者の名前にちなんで、ヘッジス・スカルと呼ばれることになります。
発見されたヘッジス・スカルの矛盾点
以上のように、ヘッジス・スカルの神秘性を強めている理由の一つには、マヤ文明の古代遺跡から発見されたことが挙げられます。
ところが、これを根底から覆してしまう話もあるのです。超常現象専門家のジョー・ニッケルと、ジョン・F・フィッシャーの二人が、ヘッジス・スカルの出自について徹底的に調査したところ、矛盾する点が幾つも判明しました。
以下、『謎解き古代文明 ASIOS』より、その要点をまとめてみます。
証拠となる写真が一枚も残されていない
ルバアントゥン遺跡の発掘調査には、ヘッジス親子ととともに、レディ・リッチモンド・ブラウン女史(写真中央)と、トーマスガン博士(写真左)が調査メンバーとして加わっています。
右の男が、ミッチェル・ヘッジスです。写真を撮られる時には、いつも格好良くパイプをくわえています。やはり、ちょっと山師の匂いはしますね…。
ブラウン女史はこの時、多数の写真を撮影しています。しかし、肝心の水晶ドクロと、その発見者と言われるアンナ(ヘッジス博士の養女)の写真が、一枚も残されていないのです。
発見者と言われるアンナは、そもそも調査に参加していなかったのではないか?という疑念も指摘されています。
調査メンバーの本には何も触れられていない
もう一人、当時の主要メンバーとして発掘調査に参加していたトーマスガン博士は、1931年に『マヤの歴史』という本を著しています。
しかし、そこにも水晶ドクロの記述が全くないのです。
1927年に、ミッチェル・ヘッジスとともにマヤ遺跡の発掘調査を行い、そこで水晶ドクロという大発見がなされたにも拘わらず、それについては何も触れていないというのは不可解ですね。
水晶ドクロが発見された年に、ヘッジスは英国にいた
実は、遺跡の発掘調査をしていたはずのミッチェル・ヘッジスは、1926年に一時帰国をしており、水晶ドクロが発見された1927年には英国にいたことが判明しています。
この点を指摘されると、養女のアンナは、スカルの発見は1924年であったと撤回しています。
水晶ドクロは、アンナの17歳の誕生日に発見されたことになっていました。誕生日というメモリアルな日に起きた出来事を、果たして勘違いするだろうか?と思いますね。
しかも、当初の話から3年も遡っています。アンナは14歳ほどの年齢だったことになります。そのような少女を発掘調査に同行させるだろうか?という、疑問も出てきますね。
後年のアンナ・ヘッジスです。マヤ遺跡で発見したという、ヘッジス・スカルとともに撮影されています。
ヘッジス本人の本でも、水晶ドクロに触れていない
奇妙なことに、発見者であるヘッジス本人も、水晶ドクロについての記述をほとんど残していません。
1930年代にルバアントゥン遺跡についての記事を数本書き、31年には『謎と恐怖の地』という本を出版していますが、水晶ドクロの記述はありません。
1954年に自伝を出版し、そこでようやく触れていますが、それは数行であり、水晶ドクロの出自に関しては「わけがあって言えない」としています。
この短い記述も、その後の版では削除されているのですから不可解です。
ヘッジスは美術商から水晶ドクロを買っていた
これは決定的なことになりそうですが、前述したジョー・ニッケルが調べたところ、ヘッジスは1944年、シドニィ・バーニィというロンドンの美術商から、水晶ドクロを400ポンドで買っていたというのです。
これはロンドン美術館の記録にも残されており、間違いないでしょう。養女のアンナも、この事実は否定しませんでした。
しかし、借金の形にバーニィに水晶ドクロを貸していたが、バーニィが売りそうになったので慌てて買い戻したのだと釈明しています。
ちなみに、ヘッジス・スカルが最初に文献に登場するのは、人類学雑誌『マン』の1936年の記事とされています。
その持ち主は美術商のバーニィであり、彼によると、以前の持ち主は英国の収集家で、それより以前のことは分からないとしています。ヘッジスの名前は、記事のどこにも記載されていないのです。
バーニィが、あえてヘッジスの名前を隠し、ウソを言う理由があるでしょうか?
それでもオーパーツであることは間違いない?
以上に紹介した点から、発見者のヘッジス親子が、マヤ文明のルバアントゥン遺跡で1927年、水晶ドクロを発見したという話は、非常に怪しくなってきました。
これだけ多くの矛盾点があると、信じろというほうが難しいですね。
しかし、発見された経緯はどうであれ、ヘッジス・スカルは現代の技術では作れないオーパーツであることには間違いない!という意見もあります。
確かに、その通りですね。1970年代に行われたヒューレット・パッカード社の解析によって、結果は出されているのです。発見者が誰であろうと、クリスタルスカルがオーパーツであることに違いはありません。
とはいえ、解析されたのは1970年代のことです。現在の解析技術ならば、当時には分からなかった点も見つかるかもしれません。
次ページでは、他の伝説のクリスタルスカルと、ヘッジス・スカルが再度解析された結果をご紹介します。